世界の眺め方

どうにも最近ののの元気な姿を見ていない気がします。
ああ、だから俺も何となく元気ないのかぁ
吉本ばななの小説「アムリタ」の中にこんな一説があります。


「成長期の少女に芸能界が与えた影響は凄まじかったようで、引退直前の彼女は顔もスタイルも化粧も服も、まるで独身男の妄想を女の形にしたみたいな状態になっていた。」


ちなみに、この作品の中のこの部分は主人公が自殺した元アイドルの妹を回想する部分です。
なんか少し怖いですね。
既にファンとしては失格かもしれないけれど、俺が彼女に求める姿というのは、彼女に惚れた一番最初の時から実は一貫していて、それはソロ歌手として歌う姿、芸能界で活躍する姿、というのはあまり正しくなくて、それよりもっと前に、彼女自身がまず楽しそうに笑っていて、元気に生活している、ということがあるんですね。
それは本当、今も昔も変わらないです。
でも、それだと彼女をもう見れなくなる、接点がなくなるじゃないか、という人もおられますけど、俺は、今の環境が彼女に合っていないのならば、それでも良いと思ってます。
まぁ、芸能界なんてさっさと辞めちまえって思うことも多々あります。
でも、見れなくなるのはやっぱり寂しいと思う。もうめちゃめちゃに寂しいでしょう。
それでも、彼女や、彼女のような人が、自分の意思とは裏腹にただ世間の思惑や欲望に流されて不幸になって行くのを見るよりは100倍マシです。
それにそういうのを見ていると、自分の心まで腐っていくのが分かるんですね。
どんどんどんどん、腐臭を放つまでになってきちゃって。
そういうのって健全じゃないし、だから彼女がただ、板橋のどこかで楽しくて、平穏で、幸せな毎日を送っていると思えるだけで、俺の心は元の正常な位置に落ち着くことができるんですね。
彼女のような人があまり幸せそうでないと、それだけで俺はこの世界が嫌いになれます。
なんか、勝手に今の彼女があまり幸せじゃないと決め付けてますが、そんなことは実際俺には分からないわけです。
実際ウハウハかもしれないですしw
でも、彼女は本当に今、彼女自身の望む彼女を生きているんでしょうか。
はたまた、それを思い描けるだけの時間的猶予と精神的な余裕があるのでしょうか
自分を犠牲にしてまで与える幸せは、相手にとっては重荷でしかありません。
まず、彼女自身がしっかり彼女を満たせることができていて、初めて俺は彼女が与えてくれるものに対してYESと言える。
今の彼女が、彼女の望む彼女を生きているかどうか、、、知る術はなし。
俺の眼には、正直そうは(幸せそうには)映らない。振り回されてるように見える。
でも、きっとそんな彼女だからこそ、俺はずっと彼女を一番に気にかけてきたんだろうか。
彼女を救うことで、俺は自分自身を救いたいのかもしれない。
なんて、救うなんて言葉使ってる時点で、俺の傲慢も行き過ぎてるね。
結局のところお前は、彼女を自分色に染め上げたいだけだろう。
他の奴らと何も変わらんさ。
じゃあ、俺に何ができる。何を思い、祈り、願えば良い?
彼女の幸せは、俺の傲慢に過ぎないか。
彼女の自由を束縛はしたくないが、ただ、笑って生きて欲しい。
それが俺の本当に傲岸不遜なたった一つの願望。
俺の狭い心じゃ、彼女の不幸そうな顔を見るのに耐えられないだけなんだよな。
本当に傲慢で、自己中な奴だなぁ、俺って。
そうなんだよなぁ、ほんと。
恋だとか、願いだとか、奇麗事もはなはだ馬鹿らしい、そんな思惑。