リアル226

買ってきて先ほど一回見終わりました。
感想を述べる前に一言、言っておくと、ここ最近リリースされたハロプロプロダクツの中で、
僕がこれほどまでに発売を心待ちにし、中を見る前の時点でここまで心躍らされたものはありません。
それはすなわち、期待度の高さを意味します。
前にこの日記にも書きましたが、期待は往々にして裏切られる、裏切られやすい。
まぁ、そんなこと言ってたなんて自分ではすっかり忘れて、ただワクワクして中を見ました。
感想を一言で言うと、言えません。
言えないです。自分で振っておいてなんですが、言えません。
ていうか、何でもかんでも言葉で表現できるなんて思わないで下さい。
世の中には言葉で表せないことなんて山ほどあるんです。
例えば美味い飯を食って、その美味さを他人に100%、相手も同じものを食べ、同じように感じるように
言葉で伝えることができますか?
とても良い音楽を聴いて、その素晴らしさを口頭で他人に正確無比に伝えることができますか?
夢の切なさを説明できますか?
愛や思いやりや慈しみの気持ちを伝えることができますか?
一週間耳掃除をせずに、溜まっていた大きな耳糞をたった一かきで取り出せた時の達成感を言い表せますか?
どれも大変に困難なはずです。
せいぜいが「美味い」「素晴らしい」「切ない」「気持ちい」、それくらいが関の山でしょう。
多少それらに理屈を持ってして、なんらかの言葉を付け加えることができたとしても、
実際に味わった時の感動に比べたら、どれもこれもあまりに陳腐だ。
何故なら自分の心は自分にしか宿らないから。
何かを感じる心は人によってみなそれぞれ形を変えている。
主観の中心にあるのが、それら心です。


そして、「美しさ」という観念もまた、主観的なものなのです。
しかしながら人というのもまたなかなか難儀なもので、度が外れた「美」を目撃すると、
その物差しが自分の小さな世界だけでなく、外の広い世界にまで通用すると錯覚してしまうのです。
それほどまでに、規格外の「美」というのは、時に人から考えることを止めさせ、
平気で錯覚を起させ得る「力」を持っています。
そう、「美」とは「力」なのです。
これほど情報化が発達した社会では、日々色々な情報が飛び交い、溢れている。
言葉もまたその一つです。
そしてその性質から言って、言葉は最も理性的な部分で人間を支配しやすい。
まぁ、もちろん全部が全部じゃないですが、理性的な人間は言葉に振り回されやすいということです。
だが「美」というのは、当然ながら言葉とは全く違う力を持っている。
簡単に言えば言葉意外の部分で人間を支配することができるのです。
それは大変に本能的で、野性的、そして当然ながら官能的にして、ともすれば最も汚れなき支配かもしれません。
人はそれに対し比較的寛容、と言えば聞こえは良いが、無自覚で、知らない間にその対象を絶対君主とし、
それに隷属することを見過ごして生きている。
(話はちょっと反れるが美しいものを「美しい」と言えない、面白いものを「面白い」と言えない人間は
どこかしらそうすることで自分のその対象への隷属を直感しているのではないだろうか。
性癖で言うサドってやつかもしれない。)
これで分かったでしょう。
何故に彼女が「様」づけをさせられるか
それは彼女が自らの持つ圧倒的な「美」の上にあぐらを掻いた、絶対君主に他ならないからです!
話をもとに戻しますが、「美」による支配、また言語以外のもの
(人の感情や本能に直接的に訴えかけるもの)による支配というのは、ある種の絶対性を持つと思います。
それは、そのものが言語が司っている表層的な意識層を通過し、より脳の(心の)深層部分に直接働きかけるためだと思います。
それは他人からの干渉、自己への疑い、思考、それらを一手に遮断することができるのです。
考えるための道具(言語)を持たない人間は、どうするか。
そういえば、僕の敬愛するあの宮崎駿はこう言っています。
「人は生まれた時から可能性を失っている。見たものを抽象し、言語化した段階で子供のころのような素直な観察眼は失われつつある」と。
(正確な言葉を思い出せませんが大体こんな感じのことを言ってました)
裏を返せば、言語を習得しなければ、今の現代人よりももっと鋭敏な観察眼が養われるということではないでしょうか。
より変化に敏感で、快感に対しも貪欲、野生と本能のみで生き、現代社会が常識としていることをいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。
なんかちょっと考えるとこういう人何人か思いつきました。
一番最初に思い浮かんだのが、長島終身名誉監督、次にイチロー、そして我らがクロダ総帥!
いずれ劣らず皆が「すごい!」と認める男達です。
人は彼らを天才だとか、神だとか言ったりします。
合理性という陳腐な言葉からはかけ離れた行動の奇才っぷり、言語の不明瞭性、快感への執着、
勝負所を天才的に嗅ぎ分ける嗅覚、自己への圧倒的なこだわり、常識を気にも留めない図太さ、それを貫き通す信念。
いずれも、他人からの干渉や、自己への疑いを持っていては決してでできないことです。
(またはそれをねじ伏せることができる精神的なタフさ)
言語で考えること、ともすれば思考自体の無意味性を一番知っている人間たちかもしれません。
大事なことは、自分の情動を信じ、それに向かって突き進むことだ。
他人の目や、他人の言うことなんて気にするな!
まして、自分の中で生じた疑いも粉砕しろ!
言葉なんてものは所詮人間が考えた道具にすぎない、今を生きるんだ!
彼らを見ているとそう言われているような気さえしてきます。


またまた話が大きくそれてしまいましたが、要は「美」による支配がいかに人にとって抗い難いかと言うことです。
もちろん個人差は多分にあるでしょうが、僕のようにあまり理性的ではない人間は、
その力による支配を受けやすいわけです。
いかなる批判や世間の目、自分の中での葛藤も、単純で神がかり的な力を有する「美」の前には圧倒的に無力なのです。
「だって美しいんだから」「だって綺麗だもの」「だってかわいいんです」
「だってダイレクトに心に働きかけてきたんだ」
言葉というのは、この際言い訳ぐらいにしかならない。
それほどまでに真実の「美」は暴力的でさえあるのです。
今日で二十歳でになる藤本美貴「様」は、果たして自分が持っている
その存外な「美」という「暴力」を一体どこまで認識しているんでしょうか。
いやはや、興味が募るところであります。


最後に一言だけ、これだけ言っといてまだ言うつもりかとお叱りを受けそうですが、
上の文章が長すぎて読んでない人のために、一言でできるだけ分かりやすく感想を言っておきます。




「美しい」とはこういうことか!




以上です。


■追伸
いないとは思いますが、上の無駄に長いだけの駄文を読んでくださった方はありがとうございます。
あと、できればより多くの人間とこの感動を共有したいので、写真集の購入も検討してみて下さいな。
僕のように、あまりの素晴らしさと美しさにこんな駄長文を書いてしまうかはわかりませんが、一見の価値はあるかと思います。