羽生

■ハロパ@羽生
羽生で行われたハロプロパーティーの昼公演に参戦して参りました。
席は15列右よりだったのですが、会場がわりと狭かったので、普段感じる15列よりは近く感じました。
ライブの感想はというと、なんかすごく楽しかったです。
メロン、松浦、そしてW、みんなやっぱり素晴らしいと思いました。
MCも面白いし。
あとは、パーティーと銘打ってるだけあって、やっぱり盛り上がってしまうんですね、自然に。
実は一昨日くらいから、ちょっと風邪気味っぽいので、今日はあまりはしゃがないでおこうと事前に心に決めていたのですが、終わったら何故か汗だくでした。
一応替えのシャツを持ってきておいて良かったです。
なんかそういう風に盛り上がってしまうような構成になってるように思いますね、今回のこのハロパ。
まぁ、だから楽しかったわけですねw




では、今日は以上。




ののさん
書けない。というより、書きたいと思わない。
結局のところ、俺にとって俺の心のある一面の、そのまたとある一部分を、例えそれが友人たちとの話し合いの場であれ、ネットで展開するブログという場であれ、どういう形であれ晒すということは正直これ以上ない苦痛を伴う。
それは、ごく一般的な羞恥心というよりは、むしろ自分自身に対する虚栄心からである。
そして、それは本当に虚栄でしかないので、中身は当然、空っぽである。
生憎俺にはその空っぽの心に嘘の洋服を着せて、それらしく詩的に書いてしまえるという才能はないのだから、本当にそれこそ何も書くことがないのである。
一応それらしく、体裁だけを整えて書いてしまうということは、何の訓練も受けていない、今さっき村からつれて来たような百姓に無理矢理刀やら鎧やらで武装させることと俺にとっては同じなのだ。
敢えてそれをしようとは思わない。


実はこの文章における、「武装」というのはちょっとしたキーワード。
唐突だが、槍を喉元に突きつけられた経験のある方はいるだろうか?
鋭い刃を持った、れっきとした殺傷能力を備えた正真正銘本物の槍である。
銃刀法が定められているこの国では、恐らくそのような経験を持っている人は、めったにいないであろう。
そして多分に漏れず俺もそうである。
しかしながら、そうされた、その気持ちというのが今は少しだけ分かるような気になっている。


最初は本当に細くて小さな槍だった。それこそ爪楊枝くらいのかわいいものだった。
それがある時点を経てから、特にここ最近は非常に早い速度で肥大して行き、今はとてつもなく大きい槍に成長している。
刃の部分だけで西瓜を二つ縦に並べたくらいに巨大だ。柄の部分でも優に3メートルはあろうか。
それが、ずっと俺の前方斜め四十五度からほとんど喉もと3センチメートルの宙空にピクリとも動かず、ただじっと静止しているのである。
もちろん本物の槍ではないのだから、常にリアルな危険が迫っているというわけではない。
ただ、時折、その槍はとてつもなく大きな存在感を放ち、本物の槍以上の圧力で俺に差し迫ってくるのである。
喉もと1センチまで近づいたその巨大な槍を、俺は正視できない。
その圧倒的な存在感が発する恐怖を肌で感じながら、ただ見なかったものとして目をそらし、唾を呑み、息を潜めるだけなのである。


今日のライブの前半は、その槍が今までで最大級に肥大化した時間であった。
その槍に突かれる前に窒息してしまうんじゃないか、というくらいに俺の全身がストレスでがんじがらめになった気がした。
槍に対抗するための刀と盾は一応持ってはいたが、すぐに無力化してしまう。
ライブの後半は、槍の存在も陰を潜めだした。俺は、気兼ねなく槍をただの棒きれほどまで貶めることができた。
あくまで、表向きは、である。
やはり存在は肌で感じてはいた。


夜公演が始まる前や、終わったあとに、話をした。
彼らは随分と「楽しそう」に話をした。
少なくとも俺にはそう見えた。


電車で帰る途中、俺は事務所に対して悪態をついた。


全て嘘である。
上記の二つ、それをここに書いたことを含めて、いずれも俺の本当の感情ではない。
気を悪くしないで欲しい。
彼らにはいつも感謝しっぱなしである。
ただ、俺の感情は


○○たい




悪態をつくのは、本当の感情にローションを塗りたくって、すべりをよくしているだけのこと。
それをどれだけやっても、何の意味も価値もないことはわかっている。わかっていてやっている。
ただ、「スベリ」が良かったから、そうしたまでのことだ。


ちゃらけることも、ローションを塗るのと同様の行為だ。
少なくとも槍を見ないで済むことと、お力添えが戴ける。




彼らが話した時に、その話題空間の中空に、またもや槍が現れた。
俺はやはりそれを正視することができなかった。
見てしまえば、槍は容赦なく俺の喉もとを一突きにするだろう。
その後に漏れるのは、赤い血ではなく、ただただ救いようのない、
声とも音とも呼べない叫びでしかないのだから。




なんか書けないと言ったわりに、結構書いてるね。
でも、本当のところは「何も」書いてはいない。
下手糞な比喩を使って、何かを書いたように錯覚させておいて、その実、何も書いてはいない。
でもそれは決して書かないんじゃなくて、やはり「書けない」ということなんだ。
それでも今、上に書いたことが、嘘や偽りではないことだけは確か。